年 表

北条義時

 鎌倉時代前期の武将・政治家。
鎌倉幕府第二代執権として元久二年(1205)〜元仁元年(1224)の間在職。
相模守・陸奥守・右京権太夫を歴任する。
他の有力御家人を制し、また承久の乱で京都方に勝利して鎌倉幕府の基盤を固め、武家政権確立の道筋を築いた。
全国政権としての武家政権の実質的な創始者。享年62歳。

  
長寛元年(1163)
北条時政の次男として生まれる。
幼名は江間四郎・江間小四郎と称す。
母は伊藤入道女。
治承四年(1180)
源頼朝の挙兵に父時政、兄宗時と共に参加。
石橋山合戦で宗時が戦死したため、嫡子の地位を得る。
以後、父と共に頼朝の側近として鎌倉入りに協力する。
養和元年(1181)
頼朝の御寝所近辺の祗候衆となる。
寿永二年(1183)
長男泰時誕生。
元暦元年(1184)
源範頼の平家追討軍に従って西海に赴き、武功を立てる。
文治五年(1189)
奥州征討軍に加わり、頼朝を補佐する。
建久元年(1190)
頼朝上洛に際し、先陣の随兵に加わる。
頼朝の信頼厚く「義時をもって家臣の最となす」と称賛された。
建仁三年(1203)
比企氏の乱。
将軍源頼家の子一幡と比企一族を滅ぼす。
元久元年(1204)
伊豆修善寺に幽閉中の頼家殺害。
義時の主導とされる。
元久二年(1205)
武蔵野国二俣川で畠山重忠を討滅する。
後にこれが讒言による冤罪と判り、父時政と対立する。
時政伊豆に引退する。
建保元年(1213)
和田氏の乱を制圧し一族を壊滅する。
和田義盛が占めていた侍所別当の地位を手中にし、幕府の実権を掌握する。
建保六年(1218)
夢告により大倉薬師堂(後の覚園寺)を建立する。
承久元年(1219)
将軍実朝、頼家の遺児公暁により暗殺される。
義時の陰謀によるとする見方もある。
承久三年(1221)
後鳥羽上皇、義時追討の宣旨を発し、承久の乱勃発する。
戦いは鎌倉幕府側が勝利し、全国政権としての地位を確立した。
貞応二年(1223)
上皇方から没収した所領三千余個所に配した新補地頭の得分の基準、新補率法を定める。
元仁元年(1224)
六月十三日死去。
「外縛印を結び、念仏数十反の後寂滅す」とある(吾妻鏡)。
・没後年表(主として吾妻鏡にもとづく)
元仁元年(1224)
  六月一八日 義時葬送。頼朝法華堂の東の山上をもって墳墓となす。
           葬礼の事、陰陽師知輔朝臣これを計らう。
     一九日 初七日仏事。
     二二日 三浦義村による臨時の仏事。
     二六日 二七日(十四日)仏事。同日、泰時(長男)時房(弟)京より戻る。
  七月  四日 三七日(二十一日)仏事。
     一六日 五七日仏事(五は四の誤り。二十八日)
     二三日 三十五日(五七日)仏事。
     三十日 四十九日仏事。
  八月  八日 今日、義時の墳墓堂「新法華堂と号す」供養也。
     二二日 百ケ日仏事。
 一一月一八日 泰時、義時一周忌供養のために伽藍(釈迦堂・廃寺、浄明寺釈迦堂ケ谷所在)を建て始める。
     二二日 三浦義村による臨時の仏事。
嘉禄元年(1225)
  六月一三日 義時一周忌。新造の釈迦堂で供養する。
嘉禄二年(1226)
  六月一三日 義時三周忌供養。
           大慈寺(廃寺、十二所所在)の釈迦堂で供養する。
寛喜三年(1231)
  十月二五日 時房の公文所から出火。
           頼朝ならびに義時法華堂、同御本尊灰燼と化す。
     二七日 泰時・時房評定所に赴き、宿老達と法華堂ならびに本尊の災の事を協議する。
           墳墓堂炎上の場合に再興の例は無いが、今回は幕府が寺家に助成し
           再建する旨を議定する。
 一一月一八日 頼朝法華堂上棟す。
           (義時法華堂もこの頃再建に着手か)
嘉禎二年(1236)
   六月  五日 伊豆北条にて十三周忌供養。
暦仁元年(1238)
 一二月二八日 北条時房・泰時等、頼朝・政子・義時の法華堂に詣でる。
           (再建されたことを示す)
仁治元年(1240)
  一月二四日  北条時房死去。
仁治二年(1241)
 一二月三十日  泰時、頼朝・義時法華堂に詣でる。
仁治二年(1241)
  六月一五日  北条泰時死去。
宝治二年(1248)
 一二月一三日  北条重時・時頼、頼朝法華堂と義時法華堂に詣で、経巻を供える。
建長二年(1250)
 一二月二九日  重時・時頼、頼朝・実朝・政子ならびに義時の御墳墓の堂々を巡礼す。
弘安三年(1280)
  十月二八日  頼朝ならびに義時時房法華堂焼失。
           (北条九代記他)
           ※時房を合祀した可能性あり。
延慶三年(1310)
  一一月六日  安養院より失火。
           前代未聞の大火。
           法華堂など多数焼失。(北条九代記他)
           ※「法花堂」としか記載されず、弘安三年の大火後、義時法華堂が
            再建されたかは不詳である。