鎌倉市歴史遺産検討委員会 中間報告書 (平成16年5月)

武家の古都・鎌倉

〜鎌倉における歴史的遺産の普遍的な価値について〜


1.普遍的価値

 鎌倉は武家がはじめて自ら造った政権都市であり、古代都市とは異なる地理的環境や地形に応じた特徴ある武家の首都である。
 武家はこの鎌倉で将軍を中心とした独自の政治機構と法を整え、モンゴルの襲来を退け、七百年におよぶ武家政権の基礎を築いた。
 東国の鎌倉に武家政権が置かれたことで、日本社会には東西交流と融合がもたらされた。また鎌倉に成立した武家政権は鎌倉の自然環境を背景として、禅宗をはじめとする南宋文化を積極的に導入して独自の文化を形成した。これにより武家の精神や信仰が高まり、以後の日本人の価値観や行動様式に大きな影響をあたえた。
 武家の文化は日本文化の発展に極めて重要な役割を果たし、鎌倉は中世東アジアの特色ある都市となった。


2.概要

 (1)武家による独自の都市構造

【政権の所在地としての位置付け】
 1180年に源頼朝が鎌倉に政権を開いて以来、日本は古代的な天皇を中心とした政権(朝廷)と、征夷大将軍を中心とした武家政権(幕府)が並立する二重構造となり、1868年の明治維新に至るまで武家による政権が700年もの長期間継続するという、独自の発展をみた。
 各時代の武家政権は、鎌倉、京都、江戸などの都市を所在地としたが、武家が自ら造った政権都市は鎌倉と江戸の二つで、江戸はその後近代都市東京に変貌し、大震災・第二次世界大戦により被災したため武家の文化を伝える政権都市の遺産は鎌倉だけである。

【鎌倉の地理的位置】
 武家政権(鎌倉幕府)発祥の地である鎌倉は、太平洋の相模湾に面し、また東京湾を臨む三浦半島の基部にあたり、太平洋側の海上交通路と東京湾の海上交通路の双方を扼する東日本の沿岸海上交通の要衝に位置している。

【都市鎌倉の整備】
 三方を標高100m程度の急峻な山稜部で囲まれ、相模湾に面する地理的環境は、軍事的色彩の濃い武家政権の所在地として格好の条件を提供し、中国の都城制の影響による平城京・平安京などの平坦な方眼区画の古代都市とは異なって、地形に応じた独自の都市構造をもつ武家政権の首都として発展した。
 『鶴岡八幡宮』は、武家政権の鎮護のため、1180年に鎌倉の平坦地最奥北の丘陵に創建された。1191年に上下両宮として整備されるなかで都市の中心とされ、その参道であり由比ガ浜と南北に結ぶ『若宮大路』は都市の基軸線となった。
 幕府の周辺や交通の要衝には、家臣たちの館が建ち並び、また南の浜を中心にして都市の社会・経済を支える職能民の家などが広がった。
 鎌倉の都市の発展とともに谷戸部の開発が進んで寺院が建てられ、周囲の山稜には稜線を堀り下げて「切通」という交通路が開かれ、その周縁部に政権担当者の一族の屋敷が配され、交通路の支配と防御の拠点となった。

【信仰と空間】
 将軍御所の近傍には武士が信仰する寺や神社が建てられた。西の『鶴岡八幡宮』をはじめ、東の『荏柄天神社』は武士の誓約に関わる神として崇められた。東北には奥州藤原氏を滅ぼした際の戦死者の鎮魂を祈って『永福寺』が1194年に完成し、北には将軍源頼朝や執権北条義時の墓所である『法華堂』が建てられ、信仰の空間が形成された。
 谷戸部での開発がすすむと、13世紀後半以降南宋寺院の境内構成を取り入れて階段状の人工地形に寺院が建てられ、大禅宗寺院では自然景観と人工景観の総合美が尚ばれた。山を垂直に切り落とした「切岸」には、武家や僧侶の墳墓堂を岩窟内に表現する「やぐら」が造られ、「切岸」の下には岸壁を背景とする独自の景観をもつ庭園も造られた。

【都市周縁部】
 都市前面の海上には沿岸海上交通の拠点として1232年に『和賀江嶋』が造られ、海浜には海上交通等による物品を納める倉庫や都市民の葬地が造られた。  都市の西側周縁部には、幕府の政策と勧進により、1252年に守護仏として高さ11m余りの青銅の阿弥陀如来の『大仏』が、独自かつ高度な技法により鋳造された。  都市の北西周縁部には興国の道場として1253年に『建長寺』が、1282年にはモンゴルとの二度の合戦でのすべての戦死者を弔って、『円覚寺』が創建されるなど、大禅宗寺院が建てられた。その建築は南宋様式を基調にした禅宗様(唐様)と呼ばれる様式として整えられ、他の宗派にも受け入れられて日本における木造建築物の二大様式の一つとなった。

【鎌倉時代以降】】
 1333年に鎌倉幕府が滅びた後も、鎌倉には1454年まで鎌倉公方の御所が置かれ、東国の支配の拠点となった。近世には1602年に武家政権が近くの江戸に置かれ、鎌倉が武家の古都として重視されたことから江戸幕府の直轄地とされ、地形が大きく変えられることもなく、鶴岡八幡宮をはじめ寺社が特別に保護された。  明治時代以降、丘陵に囲まれた環境の良さと古都としての雰囲気により好ましい住宅地となったが、近年急激に都市化する中で、市民運動により1966年に「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」の制定を促して歴史的遺産を含む土地の保全が行われ、現代に至っている。

 (2) 鎌倉の武家社会・文化

【政治】
 鎌倉の武家政権は1232年に武家独自の法である御成敗式目(貞永式目)を制定したが、これは武士の神仏への崇敬を基点としたものであった。また1274年そして1281年の二度にわたるモンゴルの襲来に対しては、強固な主従制に基づく武士集団を結集した政権であったため、全国からの軍事力の動員が可能となってその撃退に成功し、この撃退への対処を通じて日本の国家的・民族的な一体感がもたらされた。

【経済】
 武士が日本各地の土地を支配することにより隔地間交易が盛んになると共に、政権が南宋・元貿易を積極的に進めたため全国的な銭貨の輸入により貨幣経済が広がり、さらに為替の制度も生まれるなど、その後の日本における経済的発展が準備された。

【宗教と文化】
 武士や民衆を目指した仏教が鎌倉へ積極的に布教したため、鎌倉には禅宗・浄土宗・律宗・日蓮宗などの仏教の宗派が興隆し、全国に広まってその後の日本人の宗教のあり方を決定づけた。特に上流武家が禅宗を積極的に導入したため、教義だけでなく南宋・元様式の建築・彫刻・絵画・文学のほか日常の生活様式も武家に選択的に受け入れられたことから、大陸の文化様式は鎌倉から京都をはじめとして全国各地に広がって日本文化の新たな発展を導いた。
 武士の間には神仏への崇敬や倫理としての質実剛健と名誉を貴ぶ気風などが重んぜられ、これはやがて「騎士道」に対比される「武士道」へと発展していった。武士が訓練を積んだ流鏑馬や相撲などの武芸も武士の精神的支柱とされた鶴岡八幡宮などの神事で演じられ、それに伴う伝統芸能も今に継承されている。

  こうして武家の都鎌倉に育った武家による社会の仕組みや文化は、武家政権の消滅後も日本人の精神や文化のよりどころとして現在までに引き継がれている。